Hütte on the moon.

いだてんぐの小説置き場です

ウサギ

「兎月くん、聞いたことがあるかね?月の兎が搗く餅は大層美味しいらしい」

 

虎縞エリスが突拍子もないことを言い出すのは珍しいことではない。兎月はすっかり慣れた様子で流そうとしたが、その内容に引っかかりを覚え聞き返す。
「そんな伝説でしたっけ?元々は中国で薬草を煎じている兎に見立てられて、それが転じて日本では餅搗きになった……という感じで味についての言及は」
「伝説の正誤などどうでも良いことだ。重要なのは、今、私が餅を食べたいという事実のみ」
詰まる所。
兎月くんの作った餅が食べたい。
「月の兎と書いて兎月、これほどまでに餅搗きに最適な人材がいるだろうか……いや、いない!」
その場に立ち上がり拳を握り締めるエリスの姿に、兎月は思わず溜息をつく。常々奇抜な人だとは思っていたが、9月、この時期に餅を搗けと言われるとは流石の兎月も想定してはいなかった。そもそも名前が月の兎と書くからと言っても、餅搗きの経験など皆無。強いて言うなら市販の角餅を搗き立てのように柔らかくする方法くらいは知っているが。
「……先輩、いくら僕が兎月って名前だからといって、経験のないことは難しいですよ。大体道具とか借りなきゃいけませんし。市販のもので我慢してください」
「えー!私の口はすっかり搗き立ての餅を受け入れる体制が整ってしまっているというのに……」
「市販品でも工夫次第で十分柔らかいものを楽しめますから」
兎月のフォローは既に耳に入っていないようで、エリスは頬をまさに餅のように膨らます。
「ふーんだ。どうせ兎月くんは私のことが嫌いなんだ。私の「搗き立ての餅が食べたい」というささやかな願いすら叶えてくれない。普段あーんなに実験や研究に付き合ってあげているというのに!兎月くんは!薄情だ!」
彼女は金色の髪を振り乱しながら天井に向かって吼える。

 

不機嫌になった虎縞エリスは至極面倒臭い。
それは短い付き合いの中でも兎月が嫌と言うほど実感させられたことだった。

 

「……で、なんで僕は餅搗きの用意をしちゃっているんだろうなあ……」
サークルの先輩の家に餅搗きセットがある、というのは以前何かの話の流れで耳にしていた。その先輩に頼み込んで貸してもらったものがこれだ。先輩の家は大学から近く、台車を持っていけば十分に運べる距離だったのが幸いだった。
がらがらと台車を引きながら、研究室のある棟の駐車場に餅搗きセットを下ろす。ここなら邪魔にはならないだろう。そして2階にある研究室にいるであろう臍を曲げた彼女に向けて、兎月は声を張り上げる。
「先輩!お望み通り餅搗きの道具、借りてきましたよ!1人でやるの大変なので、手伝ってくれませんか!」
暫しの沈黙。後に階段を駆け下りる音があたりに響いた。
「そこまで言うのなら仕方がない!私が直々に手伝ってやろう!何をすればいい?」
肩で息をしながらも目をキラキラと輝かせて、エリスは兎月に指示を仰ぐ。子どものように燥ぐ先輩に、兎月の目がわずかに細められる。
「ではこの蒸し器を使って餅米を蒸してもらえませんか?餅米は近所のスーパーで買ったものがここにあります。本来は前日くらいから吸水させなければならないそうですが、今回は時間もないですし割愛しましょう」
「わかった、コンロは研究室のものを使えばいいだろう!この虎縞エリス、完璧に餅米を蒸してみせよう!」
「いや、火をつけて出来上がりを待つだけなので」
「ちっちっち、こういうのは心意気が大事なのだよ、兎月くん」
立てた指を左右に振り、エリスが最もらしい口調で言う。この先輩の説得力はどこから来るのだろう、と思いながら兎月はそれを「はいはい」と受け流した。

 

「できたぞ!」
見事蒸し上げてみせるから首を長くして待っているといい。そう彼女が2階へ消えてからちょうど1時間後。両手で蒸し器を持ったエリスが息を切らしながら、駐車場で餅搗きの準備をする兎月の元へやってくる。
「お疲れ様です」
「うむ、兎月くんも準備ご苦労だったな。見るがいい、艶々だぞ!」
金色の彼女は得意げに蒸し器の蓋を開ける。そこには宝石のような一粒一粒が光を受けてきらきらと輝いていた。
兎月はこれは見事だと頷き、臼に餅米を移す。あたりにたちまち白い湯気がふわりと立ち込める。彼はあらかじめ水に浸しておいた杵を通じて、雪のように真白いそれに体重をかける。
「餅搗きというのはこの捏ねの比重が案外高いみたいです。餅米の粒が潰れてやっと搗きの作業に入れるとか」
「ふむ……餅搗きというのは臼と杵でぺったんぺったんするイメージが強いが、実際やってみると結構地味な作業が多いのだな」
「先輩、地味とか言わないでくださいよ。捏ねがあるからこそ搗きが成立する、実験の結果を得るためには相応の準備が必要なのと同じです」
「……確かに、一理ある」
暫く杵で捏ねていると、一つ一つ立っていた米の粒が潰れて境目が曖昧になってくる。兎月は粘り気の増した塊を濡らした手でひっくり返し、今まで水平にしか動かしていなかった杵を持ち直してそれを高く振り上げた。
ぺたん。
杵の重さに餅米が沈み込む。米は名残惜しそうに杵から離れないが、杵が再び持ち上げられると自重によって臼の中にどさりと落ちた。それを何度繰り返しただろうか、粒立っていた表面は次第に絹のように滑らかになっていく。
「……このくらいかな」
「完成か!完成したのか!?」
「はい、もう食べられますよ」
いつの間にか臼の傍らには箸と皿を両手に持ったエリスが。
「醤油にきな粉、胡麻、餡子!何で食べようか……悩むな」
「待ってください、一口サイズに餅をまとめますから」
うぐぅ……もう待てないぞ、兎月くん!」

 

臼から直接餅を取ろうとするエリスにそれを嗜める兎月。
その余りにも季節外れの光景が2人から更に人を遠ざけることになるとは、このときのエリスと兎月は知る由もない。