Hütte on the moon.

いだてんぐの小説置き場です

マスター

ふわりと春の日差しのような芳香があたりに漂った。

 

「マスター、いつもの」
「おや、エリスちゃん。いつもの後輩くんは一緒じゃないのかい?」
「ああ、彼なら実習が終わらずに研究室に缶詰だよ」
私はひと段落ついたから、こうして顔を出したわけさ。カウンターに生けられた雛罌粟の花が揺れる。月光を淡く滲ませたような金色を搔き上げて、エリスは柔らかく表情を変化させた。
「だが兎月くんは優秀だからな、そう時間が経たずとこちらに来るだろう。だからそれまでの時間潰しだ」
「ふふ、そうかそうか。
……君はずっと独りだったからちょっと心配だったんだよ」
ぽたぽたとサイフォンがコーヒーを抽出していく。一滴一滴フラスコが満たされていく緩やかな時間の中、エリスの猫のような丸い瞳が細められる。
「私もついこの間までは一人でいいと思っていた。けれど──誰かと一緒というのも存外悪くはない」

 

喫茶店の中に南風が舞い込む。駆け抜ける春の匂いがコーヒーの香りと交じって、店内を優しく包み込んだ。