Hütte on the moon.

いだてんぐの小説置き場です

マグカップ

世界をマグカップ一杯に詰めたら、それは一体どんな味なのだろう。

 

とろけるほど甘いホットチョコレートに似ているのか、
エスプレッソのように深い苦味を湛えたものなのか。
あるいはミネラルウォーターに負けず劣らず無味無臭なものなのかもしれない。

 

「いやいや、レモネードだよ」
先輩は徐ろに研究室の棚からインスタントコーヒーを取り出し、ティースプーンでセピア色の粉末を二つのカップの底に敷き詰める。蜂蜜色の長い髪がさらりと肩から滑り落ちた。
「どうしてですか?」
僕は机の上に散らばったレポートをまとめながら、コーヒーを淹れる背中に視線を向ける。こぽこぽと沸き立つ電気ポットを片手に、彼女はまるでワルツを踊るかのようにくるりとこちらに振り向いた。
「酸いも甘いも噛み分ける、と言う。世界は苦しいことのみでできているわけではない、かといって楽しいことばかりというわけでもない」
古い邸宅の執事が如く、仰々しく一礼しながら彼女は一方のマグカップをこちらへ差し出した。ミルク色の陶器の中で宵闇が渦巻く。僕は有難くそれを受け取ると、角砂糖を一つその底へと沈めた。
「その絶妙な配分、レモネードと言わずしてなんというか。──それに」
洗練された所作で足を組んだ一つ学年が上のその人は、ぱちりと片目を瞑ってみせた。
「夕焼けの光みたいで美しいだろう?世界はきっと……泥水のような茶色でも、煤けた漆黒でも、無味乾燥な無色透明でもなく、そんな綺麗な色をしていると思うんだ」

 

私がそう思いたいだけかもしれないがね。

 

自分の分のコーヒーを啜ると、先輩は長い睫毛を伏せた。遠い宇宙の果てのような暗闇が、蛍光灯の太陽をゆらゆらと反射する。
「……まるで先輩の髪の色みたいですね」
不意に口をついて出た言葉に、ビー玉よりも澄んだ瞳がぱちぱちと瞬く。刹那の沈黙の後、彼女はその整った顔をくしゃくしゃにした。
「全く……言うようになったじゃないか、君も」
先輩は乱暴に僕の後頭部をがしがしと撫でてから、白衣を翻してひらひらと手を振った。
「それだけ言えるんだったら研究も心配なさそうだな。手伝おうと思ったが、やめだ」
「ええっ!?ちょっ……待ってくださいよ!」
「はっはっは!頑張れ、後輩!」

 

無造作に資料が置かれた机の上。
マグカップの中のコーヒーはまだ湯気を立てていた。