Hütte on the moon.

いだてんぐの小説置き場です

モノクロ

硯の中、波打つ墨に筆を沈める。ぷくぷくと僅かに泡を上げながら、白い毛先が黒を含んで重くなる。
すう、と息を吸って、静止。
その後一息で真横に線を引く。じわじわと紙が墨を飲み込んでいく。

 

書く字は「寿」。

 

結婚式を間近に控えた姉達ての希望で、僕が筆を執ることとなったのだ。
こうして、誰かのために文字を書くのは何時ぶりだろう。
いや、そもそもこうして筆を握ること自体久しい。
もう一本、横に。
姉が何を思って僕に書を頼んだのか、真意はわからない。けれど、その期待には応えたいと思った。
す、と力を抜いてはらう。
筆に残る墨は次第に少なくなり、紙の繊維が引っかかる独特の感触が手に伝わる。
ざらり。その摩擦を振り払うように跳ねを描くと、ぽたぽたと半紙に水滴が零れ落ちた。

 

姉は、遠いところへ行ってしまった。
僕の手の届かないところへ。

 

顔を上げると迫ってくるのは白黒の景色。
この書きかけの寿の字と同じような、白黒の、色褪せた景色。